吉永小百合は年齢を重ねてもあまりに美しい。
かつては吉永小百合のファンを総称してサユリストなんて造語も流行ったものだが、そんな憧れの女優の心を独り占めにした男が世の中に二人いる。
それは吉永の夫岡田太郎氏と、つい先日他界した俳優の渡哲也である。
かたや永年愛情を育み連れ添ったパートナー、一方はかつて結婚寸前まで行きながら泣く泣く別れた心の恋人…。
まるで恋愛ドラマの如く、二人の男性のはざまで揺れ動く大人女性の苦悩を想像してしまうが、果たして吉永小百合の心のうちはいかばかりか?
現在吉永小百合の夫はかなりのご高齢に達し、大病を患った事実もあって死亡したのではないかとの風評も聞こえたのだが、真相はどうなのか?
そして、残念ながら今はこの世にいない渡哲也だが、若かりし日の吉永小百合との熱愛は事実であったのか?故人の尊厳を守りつつ出来る限り当時の真実に迫り、壮年男女の恋心とはどのようなものなのか、じっくり考察してみたいと思う。
吉永と渡の過去
きっかけは1966年公開の映画「愛と死の記録」で共演したことであった。
渡はこのとき25歳。吉永より3つ年上だが、吉永はすでにバリバリの売れっ子で子供時代からのスターだったから、渡の方が吉永に憧れを抱いていたといっても過言ではなかったと思う。
しかし、吉永のほうも純粋な渡哲也の性格に魅かれ、二人は急接近した。吉永から渡に手編みの座布団をプレゼントしたりして、はたからもてもよく理解できるほどラブラブな仲だったという。
吉永と渡の熱愛関係は事実だったのだ。
しかし、吉永の父親はこの交際に猛反対で、これを押し切ってまで結婚に踏み切ることがきなかったというのが真実のようだ。
時代が時代である。中年期の再婚話ならいざしらず、当時の20代前半の二人にとって、親の意見を振り切ってまで一緒になることは世間が許さなかった。そんな時代に生まれたのもさだめなのだろう。
結局、渡は大学時代に一目ぼれした女性と結婚した。この事実からすれば、渡は決して吉永に一途な想いを抱いていたわけではないようだが、渡は結婚会見で「ほかにも好きだったひと(吉永小百合と思われる)がいる。」とあっけらかんとしたコメントを放っている。
恋多き俳優であることを、正直すぎるほど簡単に認めてしまうあたりは嘘がつけないあけっぴろげな男性と感じてしまう。おそらく現代だったらネットで炎上みたいな袋叩きにあうレベルのコメントだろう。
おそらく当時もこのコメントについて騒然となったことは想像に難くない。しかし、あーそうなんだ、で済ませてくれるおおらかさが残っていた時代なのだろう。ある意味自由が許されて幸せな頃のお話なのだ。
もちろん、結婚会見で他の女性のことを好きということが良いとは思えないし、正直どうかしてると感じてしまうのは筆者だけではないだろう。でも、隠れてこそこそ浮気するよりも、恋愛感情をコントロールできない不器用な己の心情を人前で晒すことができるおバカ俳優のほうが好感が持てることは確かだろう。
こうして渡は別の女性と結婚し、亡くなるまで仲睦まじく夫婦として人生を全うしたことは素晴らしいことだと感じる。
吉永小百合の方も、いささか遅れたものの、1973年に28歳で結婚している。夫の岡田太郎氏は彼女より15歳も年上だったので、当時は世間もマスコミも驚きを隠せなかったことを思い出した。
しかし、恋愛と結婚は別ものとよく言われるが、まさにこの2カップルはその通りで、双方とも夫婦仲は良く、吉永のほうは結論から言うと夫の死亡説はガセネタで現在も健在である。
渡は最終的に肺気腫を患い他界したが、彼の妻の献身的な看病は、渡の最期に安らぎと感謝のきもちを、もたらしたに相違ない。
吉永小百合もまた、夫の肝臓病を献身的に看病し現在も仲睦まじく過ごしているようであり、こちらも夫婦愛が深いことは微笑ましい。
要するに、我々令和に生きる現役世代にはおそらく計り知れない、器の大きい恋愛観を有しているに違いないのだ。
吉永と渡の再共演
それは1998年公開の映画「時雨の記」で、なんと30年ぶりの共演であった。
脚本の内容も二人にはぴったりで、プラトニックな恋に溺れる妻帯者と未亡人の物語だ。
渡哲也を相手役に指名したのは吉永小百合の方だった。そして特筆すべきはこの映画の記念イベントでの記者会見での発言だ。
記者からズバッと直球質問で「不倫についてどう思うか?」と問いかけられた。
吉永と渡の過去を知りながら、遠回しとはいえ、いきなり確信をついた質問には野暮な感じが否めないが、意外にもこの二人は、記者が望むようなコメントをあっさり提供してくれたのだ!
渡哲也曰く「世の中には本音と建て前があって、もしバレなければあってもいい」
すかさず吉永小百合も「人が人を好きになるという気持ちは誰にも止められない。ずっと恋をしていくのが人間。」まるで渡に呼応するかの如く、熱愛再現を肯定するようなコメントだった。
これがもし、相手をとっかえひっかえする現代の若手有名人たちだったら、世が世だけに即芸能界追放の憂き目を見るだろう。
しかし、老い先短い壮年の恋であり、過去のいきさつもあってか、世論は寛大であった。いや、むしろビッグすぎるほどビッグで好感度溢れる昭和の2大スタアだから許される特権なのかもしれない。
また、バックボーンには双方の温かい家庭が健在であり、吉永、渡双方のパートナーも暗黙の了解があってこその発言なのだから、世間がどうこう言おうとお構いなしなのだ。
吉永の夫も偉い!渡の妻も偉い!そして、映画のコメントと言えども、本心を勇気をもって世間に晒す吉永、渡にあっぱれと言いたい。なぜなら、夫の死亡説が流れるほど体調が芳しくない岡田氏に対し今も献身的に夫を支える妻吉永小百合であり、死期を悟りながらも最後までおしどり夫婦として過ごした渡哲也だから。
敢えて言っておくが、筆者は不倫を肯定しているのではない。少なくとも吉永と渡は狭い了見の不倫などは超越したところで、あくまでプラトニックに徹した感情の世界を暴露したに過ぎない。
この二人は倫理観など良識を踏まえたうえで、長い年月抑えてきた感情がほとばしるさまをファンに見せてくれた。これには正直感動させられた。そう感じた人は筆者以外にもきっといるはずと確信している。
エピローグ
結婚したくても結婚できなかった。時代に流され、二人はそれぞれ別の人と結婚し、それなりに幸せを全うしてきた。
その間、渡は大病を繰り返し、吉永の夫も肝臓を患って死亡説が流れるほど闘病した。
それを支える妻たちは、健気で献身的に看病し、そして一途であった。
熱愛し、それが成就できず、時を経て溢れる感情。反面、平凡でも幸せだった夫婦生活。
どちらが重いとか、正しいとかそういった議論はもはやむなしい。
秤にかけることさえ意味がないかもしれない。どちらも人生の感動であり貴重な想い出なのだ。
昭和のスタアが残してくれたとても温かいエピソードだから、良い意味で大事に残したいと筆者は思うのである。